WritingWrite's Note

松田優という名前の、物書きのはしくれのブログです。

枯れ尾花の自撮り

こっちのブログをつくったことをすっかり忘れて放置していました。

『底辺ネットライターが思うこと』はもとより捨てるつもりでおりまして、そのためにこちらのブログを書き始めていたんです。令和になったタイミングで。

なんだかもう、あれやこれやと色々なことがありすぎて、目まぐるしくて、目の前のことだけでいっぱいいっぱいでした。倒れずに今日までやってこれたのは、周りの人の支えと、作家になれたという事実です。

まだまだ有名とは言えないレベルの小説家、ですが、“作家”という肩書、「ビジネスマンを動かすほどの作品を書き上げた」という自負、そうしたものに支えられて、なんとかかんとか生きています。出版を成し遂げて、生まれて初めて、きちんと自分の足で社会に立っているような感覚を味わっているのです。

大げさに聞こえるかもしれません。けれど、ここまで成し遂げないと「社会人だ」と思えないほどの人間が現代社会に存在しているのだと知ってください。おそらく、私だけではありませんから。

インターネットが普及して、“拡散できる可視化された情報”が重んじられるようになり、“拡散できない不可視の情報”がひどく軽んじられているように思います。

なぜそう思うかというと、私はまだ、可視化された情報としての結果は出していませんが、不可視の情報としての結果はいくつか出していて、それは「一生、文章で食っていける」と確信じみた思いを感じるほどのものなのですが、不可視であるがために軽んじられ、「あいつは調子に乗っている」と評価する人から攻撃されたり、「どうせすぐにダメになる」と揶揄われたりするからです。

不可視の情報に生かされているのに、可視化されたという安心感だけでそれしか見ないというのは、いささか浅はかなように思いませんか。どうでもいいですが、いささか浅はか、って語呂がいいですね。語呂がいい文章は大好きです。言葉遊びが大好きです。

しかしながら、不可視の情報とはそれを捉える人によって意味が変化するおそろしいものでもあります。不可視の情報は、可視化された情報よりも色眼鏡のイロがよく出るものでして、良くも悪くも見る人の思うがままのイロに染め上げることができるのです。

幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言われるように、枯れ尾花が幽霊に見える眼鏡だって存在しているのです。私が枯れ尾花だとして、幽霊だと見られて恐れられるのもしんどいですが、黄金色に輝くススキであるかのように絶賛されるのもまた居心地が悪いものです。枯れ尾花は枯れ尾花でしかありませんから。幽霊だからと塩を撒かれるのも、黄金色に輝くススキだからと毟り取られそうになるのも、うんざりです。ただ、枯れ尾花が自撮りしてフィルタ加工して黄金色に輝いているっぽく見せるのは許してください。今まで散々、女として苦しんできたのですから、枯れ尾花になってからぐらいは女としての生を楽しませてください。

底辺ネットライターは自らの手で葬りました。底辺さんと馬鹿にされるのも、其処當さんだからと期待されるのも、もうしんどくなってしまいました。私は松田優という名前の、数年前までただの主婦だった小説家兼ライターです。短文から長文まで文章のことなら何でもご相談ください。私に書けない文章はありません。ただし、依頼主の中で書きたいことが決まっていない場合は書けません。それは「文章が書けない」のではなく「書く文章がない」ということですから、間違えないでください。

このノリ、文体は、底辺ネットライターのブログに書いていた内容に近いものですが、こうしたものもだらだらと書いていこうかと思います。noteを薦められたので始めようと考えていますが、「価値のあるコンテンツを作らなければいけないプレッシャー」に駆られてなかなか手が出せずにいます。文章の書き方講座とか掲載して参りましょうか。手始めに、こちらのブログで公開して公表だったこちらの記事をカスタマイズして転載するところから始めようかなとぐだぐだと考えています。

wwwrite.hatenablog.com

最近、自分のエンジンがかかるのが遅くてイライラします。自分のことを嫌いにならないうちにちゃんとしないと、また底辺に逆戻りしそうで恐ろしい。

今思うに、底辺だと名乗れるほど沼に沈んでいるときは、自分が大嫌いで仕方がないときなんだと思います。私はこれまで、自分のことが嫌いだった。それを自覚できないほど大嫌いだった。今、それが自覚できるぐらいは自分のことが好きです。ずっとこういう気持ちでいたい。心からそう思います。